私は元にいた部屋のダイニングチェアに再び座り、テーブルに置いたままのワカメの資料をもう一度見直した。
しばらくたつとアトリエからイサトさんだけが出てきて、ドアを完全には閉めず、ほんの少しだけ隙間を空けてから、テーブル越しの斜め向かいに座った。
なぜ、ドアを完全に閉めないんだろう・・・
隙間からかめくんが見える、
アトリエの床に座り、本棚の脇に置かれたミニテーブルの上に先ほどの日記を乗せて読んでいた。
イサトさんは、相変わらず穏やかな表情をしているが、僅かに緊張しているようにも見えた。
斜め向かいでテーブルに肘をつき、手に顎を乗せ何となく窓の外を見ている。
私が資料を見るのをやめて、そんなイサトさんの表情に気をとられているのに気付くと、
イサトさんは一瞬私と目を合わせ、再び窓の方に顔を向けると、ついでのように言った。
「大げさかもしれませんが、生きていると不運が予兆もなく、大きなうねりを伴った波のように襲ってくる時がありませんか?いや、予兆はあったのかもしれないが、僕が気が付かなかっただけかもしれない。あのわかめの絵はまさしくそのうねりの中で、自分の心を落ち着かせるために描いたものです。」
「すみません。勝手に、綺麗な表紙で海藻か何かの本だと思って」
「ああ、気にしないで大丈夫だよ、確かに表紙のケルプか何かかな?海藻のデザインが綺麗でしょ、一昔前はそういった重厚な表紙の日記帳が結構売られていたんだけれど、今は機能性かな?あまり見られないね。」
「すみません」
かめくんがいうと微笑んでいたイサトさんは笑って
「いや、本当に気にしないで、むしろそんなの読んでくれても構わないよ。読んで後悔しないのなら、暗い内容だよ」と茶化す様に言った。
「え、いや、そんな・・・」
・・・なんてかめくんは困ったそぶりを見せていたけど、私にはわかる、かめくんは読みたいのだ。一度誰かに興味を持つと、その心の中も覗いてみたくなる、それを誰かにいいふらすなんてことは決してしないけど、とにかく知りたくなるのだ。
私はニヤリと静かに笑って、一人でアトリエを出て元にいた部屋に戻った。
そしてイサトさんは、
「いや、まぁだからと言って、生物学的にどうとか環境的にどうとかそんな大きなことではないんですが、僕はそういった事に全然詳しくないし」と少し恥ずかしそうに付け足して言った。
でもそんなことは、イサトさんが本当に言いたいことはその絵を見ていたら分かる。
わかめ、ワカメ・・・若芽、どんな風に呼ぼうか・・・
どれだっていい、わかめを取り巻く輝く世界。薄明るい海中から手を伸ばして空まで届き、今度はその穂先がそこから天までへも引っ張り上げてくれそうにさえ見える。
それがどのように生き物として呼吸しているのか、そういったことを想像させる気がした。そしてそれを表現できるのはやはり、仕事としてわかめと長い間かかわってきた経験があるからこそなんだろうと思った。
「イサトさんはわかめが大好きなんですね」と色々思いはあったけど、上手く言えずにそれだけ言った。
「そうですね、僕は結局わかめが大好きです。」イサトさんもまた私と同じような感じで言った。
「さあ、あちらの部屋に戻りますか、まだ見せたい資料はありますよ。でも彼はもう少しこの部屋にいたほうがいいのかな」
みるとかめくんが一冊の本のようなものを手にしてそれを開いたところだった。
その中身を見てかめくんは慌てて本を閉じた。
私はそのわかめの絵をよく観察してみた。
・大きなキャンバス
・薄いグリーンのような色調
・海の中のような感じ(何か生き物のようなものも見える。藻のようなものも)
・キャンバスの中央辺りに大きなわかめのような海藻が描かれている
・その大きなわかめは不思議な色合い。茶色のような緑色のような。わかめの細かいしわや光の当たり具合も表現されている。
私がその絵をまじまじと見ていたらイサトさんが
「本当はわかめは海の中で茶色くみえるんです。それから私たちが工場で加工するためにまず湯通しすることによって、皆さんがイメージするわかめの色つまり緑色に変わるんです。」といった。
私達がへぇと小さな感嘆の声を上げると、
「でも、絵画教室に行ってじゃあ一番身近なわかめの絵を描いてみますかと言われた時、私はわかめのことを何も想像できなかった。もちろんわかめが海の中ではどんな様子なのかは知っています。けれどそれは経験からくる職業的な知識に過ぎなかった。わかめがひとつの商品ではなく生きたものとしてどのように海にただよい、また他の生物にたいして、ひいては海全体の世界に対して、どのような影響を与えているのかなんて考えたこともなかったんです。だからきっと急に現れたわかめに対する迷いのような感情が、その中央のわかめに曖昧な色合いを与えたんでしょう。」と言った。
「あの、さっきから気になっていたんですけど、このドアにアトリエって書いてますが、なにか制作をされているのですか?」とかめくんは言った。
見ると確かに部屋に入ってすぐ左手にドアがあり、そのドアにはatelierと書いてあるプレートが掛かっている。私は部屋に入った時にわかめの資料の事で頭がいっぱいだったから気が付かなかった。
「ああ、これは昔油絵を描いていた時があったんですよ。中を見てみますか?」
と言ったので入れてもらうことに。
中に入ると懐かしい雰囲気というのだろうか、昔の外国映画にでも出てきそうな感じ。
背の高い本棚が沢山あって、本棚の脇には一つだけ木でできたミニテーブルが置かれている。そのほか所々には描きかけのキャンバスが数点本棚に添って立てかけられている。
正面の壁には、確か外からこの家を見たときに海外の家の窓みたいだなと漠然と思った上げ下げ窓が二つ付いている。そしてその窓の光を十分に浴びている場所に大きなキャンバスが一つ、他のどのキャンバスよりも存在感を放っていた。
それを見てイサトさんは懐かしいような目で、
「ああ、これは一時期、一番熱心に描きこんでいたわかめの絵です」といった。
9/28追記~
これからですます調の書き方をやめて、本人の日記をイメージして書いてみます。
よりメモ書きみたいになるかも・・・
わかめの日⑰
早速私はわかめの資料を見せてもらうことにした。イサトさんは「そうだったね」と手を打ち、ガラスの扉がついている本棚を開けて「これと・・・これもか・・・」と言って、
ふんふんと頷きながら本棚のファイルを探り、いくつか取り出して見せてくれた。
ワカメのアップの写真、全体を広げた写真、茹でているところと、茹で上がったワカメ。色々あって嬉しい。
私は写真を夢中で見ていたんだけど、かめくんは部屋の様々なものに興味があるみたいだった。壁に干されたワカメ、植物、本棚の本、壁の材質にまで「なんかこの壁、質感と色がいいですね」何て言っている。もしかしたら時間を持て余しそうな気分になっているのかな?すこしそわそわしているようにも見える。
イサトさんはマイペースで何も気にしていないように見えた。
ぼんやり椅子に座ってテーブルに肘をついていたかと思えば、私を見てにっこり笑ったり(やっぱり目じりのしわがいい感じ)、ふと「ああ、そうだ」といって立ち上がり、
本棚の本を取り出して立ったまま読んでいたり・・・
まぁいいや気にしないでおこう・・・と思ってもう一度わかめの資料に目をやる私。
するとかめくんが沈黙に耐えられなくなったのか、それともどうしても気になることがあるのか「あの・・・」と小さな声で言った。
防波堤に添って15分ほど歩くとイサトさんの家にたどり着きました。
イサトさんの家は外から見ると他の家との違いといえば、まるで外国の古い家についているような小さな上げ下げ窓が付いているくらいで、あとは家の形なども普通の民家でほかとのちがいはなく、逆にその窓が少し違和感があるくらいでした。つまり全体的には、港町にある他の家々とこれといって違いはないような感じだったんですが、中に入ると温かい雰囲気の洋風の部屋で、茶色い木の床と薄いアクアブルーのような色の壁、テーブルや窓辺には植物がたくさんありました。
そして一番驚いたのは、壁に干したワカメが飾ってあったことです。
部屋全体と干しワカメに感動して、「おぉ」と思わず声を出すと、
イサトさんは壁のワカメをぱりっと割り、
「たまにこんな風に取って料理にも使いますよ。一人暮らしなんでね、料理は好きです。」と言いました。